何事も威勢よく断言してくれる人は気持ちのいいものだ。
たとえば、あるレストランに入るかどうか迷っているとしよう。店構えだけではどうもよくわからない。ここで連れの相手が「ここはおすすめ!」とはっきり言ってくれたならば、ああそうなのかと入ってみる気にもなる。
結果としてその店の味がさほどでもなかった場合、不満の矛先はどこに向かうのか。店に対する不満は生じたとしても、断言した相手への不満はそれよりも小さくなるはずだ。というのは、その人は決断するコストを引き受けてくれたからである。多くの人々にとって、何かを「決める」ことはたいそう面倒なものであり、結果はどうであれ誰かに任せてみたくもなる。
この例で相手が「友人はいまいちだと言っていたけれども、観光案内にはおすすめの店だと書いてある、でもネットの評判は辛口、といってもメニューによって好みが別れるかも」などといろいろと「条件付き」のことを並べた上で、「最終的には入ってみないとわからないね」などと結論づけたら、ずいぶんとやきもきすることだろう。たいした根拠がなくとも断言するのが責任ある態度で、多くの根拠を並べて決断をゆだねるのが無責任な態度になる。逆のようにも思えるが、そういうことはよくある。
こういった日常のささいなことであれば、結論はどうであれとにかく断言してもらって楽をしたいというのも合理的である。しかし、法律の話となるとまた話が複雑になる。
法律家は一般人から「こういう話があるんですけど、これって違法ですか?」という質問をよく受ける。世間的にはどうも、法律の専門家であればあらゆる問題について違法・合法の判断が即座にできるという思い込みが強いらしい。もちろんそれは誤りである。
何かが違法かどうかというのは、紙に書かれた法律の知識がいくらあっても判断できない。各種の通達など調べなければならないし、書かれざる慣習や法律家の相場感覚のようなものも入ってくる。そして、そのケースのさまざまな具体的文脈を知らなければどうしようもない。
それを聞いた上でなお法律家にできるのは、「こういう場合もあれば、こういう場合もある」といくつかの可能性を提示することでしかない。この可能性が高いのでは、という程度のことはいえるが、それも最終的には「判決が出るまでわからない」。ここまで煮え切らない話を聞かされてしまうと、法律家を「専門家」と信頼して質問した人はそこで失望してしまう。
問題をもう少し広げてみよう。
そもそも人々はなぜ「違法かどうか」を問うのだろうか。ここには現代特有のリーガリズム(遵法主義)の蔓延がある。簡単にいえば、ものごとを判断するにあたってややこしい価値観の問題には踏み込まず、合法か違法かだけによって決めようとする態度である。
具体的には、近年のいわゆるコンプライアンス(法令順守)意識の急激な高まりがあげられる。それはもちろん重要であるが、一方で、それ自体が目的化している悲劇的な例もある。かつてであればさほど問題視されなかった軽微な違法行為が、インターネット上で話題になった途端、全人格が否定されるかのごとき苛烈な批判にさらされる事態ももはや日常茶飯事となった。価値観の違いで人を非難するのは自分にはね返ってくるリスクもあるが、「違法であれば遠慮なく叩ける」のである。
現代社会は不確実性に満ちあふれている。誰もが安心して判断を仰げる宗教的権威とか村の長老のような存在はもはやいない。確かな答えを提供してくれているかのように思われていた科学でさえ、さほどあてにならないことが明るみに出てしまった。人々の考えが激しく引き裂かれているなかで、私たちは歴史上かつてないほどに「自分の判断」を求められるようになっている。
そこで法が最も「頼りになる」のは、合法か違法かという単純明快で強力な切り分けを与えてくれると一般にみなされているからである。もちろん「合法だからといって何をしてもいいと思うな」といわれるように、「合法」な行動をしているからといって安心できるとは限らない。しかし「違法」であればそれだけで強い非難の対象となる。だから、何がよいか悪いかわからない「不確実な」状況下では、せめて違法そうな行動だけは避ける「予防原則」が賢明な態度となる。
だから法律家への質問は「合法か違法か」ではない。「違法かどうか」なのである。
法の「断言」への依存は単に思考停止であるのみならず、暴力的な色彩さえ帯びることになる。法以外の基準もバランスよく踏まえた判断が健全であることはいうまでもない。しかし、ときにレストラン選びさえ面倒臭がる私たちが、そういった判断の重荷を引き受けることもまた容易ではない。
(2012.08.15執筆、約2000字)
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