クリント・イーストウッド最新作「J・エドガー」を観てきました(2012年2月4日、池袋シネリーブル)。権謀術数うずまく政治ドラマかと思いきや、まったくそんなものではなく、いったいなんだこれはという、心地よい放心状態を味わうことができました。2000年代の綺羅星のごときイーストウッド作品はそれぞれに人をなめたものですが、さらにまだこんな肩透かしを食らわせにくるあたり、老イーストウッドの底知れない遊び心にただ呆然とするばかりです。
地震の影響で不幸にも放映中止となった前作「ヒア アフター」は巨匠ならではのやる気のなさが露骨というか、途中で飽きて放り出してしまったかのような印象がぬぐえず、今回はどうなることか心配でおりました。しかし、これだけ見事に裏切られると、前作もあれはあれで何かあったのではないかという気分になってくるから不思議です。
思えばイーストウッド映画はすべて、よい方向にも悪い方向にも観客を裏切ってばかりのものでした。そうやってファンを置き去りにしようとするスピード感ある意地悪さが、ハリウッド的お作法を決して踏み外すことのない職人性と両立しているのは奇蹟的な――という言葉をここで安易に使っていいものか躊躇われますが――ことだと改めて認識した次第です。
本作はFBI長官を長らく務めたJ・エドガー・フーバーの(メタ)回想録といった形をとっています。時間的に錯綜したナラティヴはたいして評判がよくないようですが、単線的な筋をあえて拒否する意味は最後に明らかになるのでここで述べるのはやめておきます。いずれにせよ、まっとうな伝記映画では最初からなく、地味で断片的なエピソードが静かに並べられていくだけです。そこにあるのは権力者の孤独な「純愛」模様、もっと平たくいえば「男の子になることの困難」といったものです。
映画前半の国会図書館でのデートシーンは、ぎこちないみずみずしさに胸が痛くなるものですが、そこで勢いあまって秘書にプロポーズしてしまうフーバーからは本心から彼女を愛しているといった熱情を感じることはできません。むしろそこにあるのは痛々しい義務感です。「一人前」の男になるには、ちゃんと女性を口説き落とせなければならないといったふうなもの。
結局それはうまくいかなかったわけですが、この種の強迫観念――母の亡霊――は一生にわたって彼を悩ませ続けます。彼の権力欲や権謀術数、あるいは「クローゼット・ホモセクシュアル」といった面は、初手からの挫折とその強迫的隠蔽を念頭に置くことによって、どこまでもやるせない悲しみをたたえていくことになるでしょう。そこがおそらく、若き天才の作による「市民ケーン」との決定的な違いです。
リンドバーグ愛児誘拐事件といった、FBIの組織拡大の契機となったいくつかの事件にももちろん触れられています。本PJの問題関心からいって興味深いのは(*1)、それがまさに捜査科学(Forensic Science)の有効性が認知される過程と重なっているところです。指紋さえろくに集める習慣のなかった当時の捜査において、フーバーの「科学的捜査」は強い反発を受けるものでした。いくつかの重大な事件が解決されていくにともなってその捜査手法は次第に認められていきますが、フーバーの生き方において科学的な知、とりわけ「情報」が大きな拠り所となったことは重要なことかもしれません。
他に頼るものを持たなかった孤独なフーバー(吃音に悩んでいる描写も示唆的です)にとって、客観的な科学知だけが信頼に値するものであったわけです。ここで科学と情報は、非合理な旧体制を打破する夢の力として描かれています。むろん、科学知がそれ自体の説得性のみによって犯罪捜査上の地位を獲得していったわけではないことには注意が必要です。その裏面として、上で述べたようなフーバーの強迫的な権力欲――「秘密ファイル」でときの大統領たちを震え上がらせた――があったのですね。科学はフーバーにとって、生きていくためのやむにやまれぬ手段であったわけです。
科学知が力を有していく過程での、そういったパーソナルな、そしてそれゆえに「不確実な」側面に注意を向けさせたという意味でも、本作は重要な問題を提起しているといえるでしょう。それは最後に暴露されるナラティヴの不確実性によってさらなる混沌の中に投げ込まれることになります。
*1 本文はJST-RISTEX委託研究「不確実な科学的状況での法的意思決定」プロジェクト(代表:中村多美子)の問題意識に引き付けて書いたものです。(2012年2月4日)
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