[ トップ履歴業績R&R ]


Deliberative democracyにおけるdeliberationの意味――特に訳語について    吉良貴之(法哲学)

1. はじめに
2. deliberationの辞書的意味
 2.1 英語辞書から
 2.2 英和辞書から
3. 現代の訳語
 3.1 熟議と討議
  3.1.1 選好の変容可能性
  3.1.2 合意志向性の有無
 3.2 熟慮
4. まとめ


1. はじめに

 本稿は、昨今(特に90年代以降)の英米の政治哲学・法哲学において一大潮流を形成している民主主義理論であるdeliberative democracy論につき、その翻訳の問題、特にdeliberationの語をいかに訳すかという点について――まさにその一点についてのみ――考察するものである*1。ここでいうdeliberative democracy論については、ひとまずは民主的政治過程におけるdeliberationの意義を強調する政治理論であると定義しておく。deliberationの意味が定まらないことにはこの定義は意味をなさないが、それを翻訳語との関係で考察するのが本稿の目的である。

 deliberative democracy論に関わる書物はすでに英米、およびドイツでは汗牛充棟の域に達し、もはや飽和状態にあるとさえ指摘されている。しかし日本では、各種の論文において言及するものは多いものの、少なくとも一冊の書としてこの理論を体系的に考察するものは数えるほどしか存在しない。それはたとえば、90年代以降の「新しい」民主主義理論としてよく並べられるradical democracy論*2 の主だった著作が次々に翻訳され、それを体系的に考察する書物も多く出版されていることと比較した場合、奇妙なコントラストをなしている。このことのひとつの原因には、deliberative democracy論が単純な体系化を拒むきわめて多様な理論であるということがある。政治過程におけるdeliberationの重要性を強調する理論の歴史は古く、J・S・ミルやトクヴィル、果てはプラトンやアリストテレスにまでさかのぼることもできよう。もっとも、より直接的にdeliberationを重要タームとして前面に出すようになった理論が登場するのは1980年代に入ってからである。この最初期の重要な論者としてはキャス・サンステインやブルース・アッカーマン、ヤン・エルスター、ジョシュア・コーエンなどがあげられる。彼らはdeliberationを民主的政治過程の中心に据えようとする志向性において共通しているが、前二者が主にアメリカの公法理論としてdeliberative democracy論を発展させているのに対し、後二者はユルゲン・ハーバーマスの「討議倫理(Diskursethik)」の影響を強く受けながら政治哲学としての民主主義理論を展開しているという違いがある。

 一応はそういった2つの流れから始まった理論であるが、しかし、特に90年代以降においては両者は相互に影響を与え合いながら混淆していく。ドイツ語にはそもそも英語のdeliberationにあたる語はなかったとされているが、ハーバーマスが自身の理論の影響を受けて展開された英米の議論を再輸入する形でDeliberative Demokratieといった語を用いるようにもなっており、理論状況は錯綜している。公民的共和主義(civic republicanism)や卓越主義(perfectionism)に近い立場もあれば、あくまでリベラリズムの枠内で民主主義を刷新していこうとする立場もある。そこではもはや、政治過程におけるdeliberationという語の捉え方(conceptions)そのものが一様のものではなくなっている。deliberationは誰が(主体)、何のために(目的)、どこにおいて(範囲)、どのようにして(作法)、行うべきものであるか、そしてその規範的意味はいかなるものであるのかといった様々な事柄の理解が各論者において千差万別なのであり、deliberationの語の意味がすでに一義的なものとしては捉えられなくなっているのである。

 この多義性は、日本においてdeliberative democracyを論じる際の訳語選択にも重大な困難を生じさせている。deliberationは「熟議」「討議」「熟慮」「審議」「協議」などと様々に異なった訳語があてられており、いまだ定訳と呼べるほどのものはない*3。しかし、現状においては、おおまかには「熟議」あるいは「討議」のいずれかが大勢となりつつある。そこではdeliberative democracyは「熟議民主主義」「討議民主主義」などと訳されることになる。だが、この「熟議」「討議」という訳語は、deliberationの語の意味をどこまで十分に伝え切れているだろうか。本稿は、deliberative democracy論におけるdeliberationの諸特徴を勘案した上で、かかる訳語を使うことの意味を考察していくものである。内容としては、(1)「熟議」「討議」は互換的に用いられ、ともすれば「好みの問題」とされることもあるが、両者は実際は微妙な差異を含んだ言葉であるということ、(2)「熟議」「討議」はいずれも政治過程における他者との「対話」を前面に押し出したものであり、その点においていくぶん、deliberationの多様な意味、特に「熟慮」の側面が表現されにくくなっているということ、の考察が主なものとなる。

 以下ではまず、deliberationがいかなる意味の言葉であるのか、それがどう訳されてきたのかを辞書的にたどった上で、deliberative democracy論におけるdeliberationの諸特徴を考察し、各訳語がそれぞれを表現する上でどういった一長一短があるのかを見ていくことにする。そして、そこから得られた示唆を述べて論を結ぶこととしたい。なお、本稿は、deliberationの訳語に関わる諸問題を考察することが目的であり、deliberative democracy論一般、あるいは各論者の主張の妥当性について考察することを直接の目的とするものではないことを付言しておく。


2. deliberationの辞書的意味

2.1 英語辞書から

 deliberationの意味は、現代の英語辞典*4 においては(1)「決定する前によく考慮すること(careful consideration before decision)」、(2)「問題のあらゆる側面について議論し、考慮すること(discussion and consideration of all sides of an issue)」、(3)「行動・行為に余裕があること(leisureliness of movement or action)などがあげられている。(1)は個人の内面における「熟慮」、(2)は他者とのじっくりとした「議論」を表している。要するに、じっくりと考えること(consideration)が中心的な意味であり、それを個人が行うならば「熟慮」となり、他者とともに行うならば「議論」ということになる。(3)は性急・拙速にならない「不急」という時間的なファクターを表している。

 語源的には、ラテン語のdeliberareに由来するものであり、この語の意味は「考量すること、よく考えること(weigh, consider well)」といったものである*5。また、接頭辞のdeを「完全に(entirely)」として、de-liberate「完全に‐解放する」といった意味合いのあることも示唆されている。

 基本的には前者の意味、すなわち様々なものを比較考量(weigh)しながらバランスをとり、十分に考慮すること(consider well)が現代のdeliberationの意味につながっているといってよいだろう。いわば個人の内的な「熟慮」が本義であるが、しかし、他者との「議論」という意味も決して昨今の新しい用いられ方ではない。後述するようにJ・S・ミルは1860年のConsiderations on Representative Government(『代議制統治論』)においてdeliberationの語を「集団で行う熟慮」、つまり議論の意味で用いているし、1870年の英語辞書*6 ではすでに「ある選択にあたっての賛否両論の理由を、相互に議論・精査すること(mutual discussion and examination of the reasons for and against a choice)」といった意味があげられている。この「理由(reasons)」の交換は現代のdeliberative democracy論においてdeliberationの中核に据えられることの多いものであり、それがこの段階で現れているということは興味深い。

 また、後者のde-liberation、つまりliberationと結びついた意味も1875年の辞書では紹介されている*7。そこではconsiderやreflect、calmnessといった意味より先に、端的に「選択すること(to choose)」という意味があげられており、用例として、「自由なきところにdeliberationなし(Where that liberty is not, there is no deliberation.)」といった文章が載っている。つまり、様々な選択肢を比較考量した上で選び出すことがdeliberationの意味とされており、行動の選択肢があるという意味での自由(liberty)と、deliberationが密接な関係にあることが示されている。

2.2 英和辞書から

 1872年の英和字典*8 においては、deliberationは「勘考」「孤疑」「尋思」「商量」「先思後行」(いずれも「スル」動詞)、「用心ノヨイ」「急ガヌ」の訳語があてられている。ここで注目されるのは、上述の(1)~(3)の意味のうち、(2)の「熟慮」にあたるものと、(3)の「不急」にあたるものだけがあげられており、(2)の「議論」にあたる意味があげられていないことである。

 J・S・ミルのConsiderations on Representative Government(1860)のChapter 5には、”What can be done better by a body by any individual, is deliberation.”という一節があり*9、前橋孝蔵による1892年の翻訳では「集合体ノ一個人ニ優ル所以ハ、思慮考察ノ件ニアリ」と訳されている*10。集合体によるdeliberationはむろん「議論」の形をとることになるが、ここでは個人による熟慮と集団による議論が同じ構造のものとして捉えられているために「思慮考察」という訳になっている。議会における「議論」にあたるものは、明治期においては「討論」「討議」などと表現されていたが、これはdebateまたはdiscussionの訳語であり*11 、deliberationの訳語として集合的な「議論」に類する語が用いられた例は、管見の限りでは明治期のものには見当たらなかった。1924年の『井上英和大辞典』*12 にて「熟考する」などの意味の他に、「討論する」「評議する」の意味があげられているのが、deliberationを「議論」の意味で訳したものとしては最初期に属するのではないかと思われる。英語の語義変遷と同様に、deliberationはまず個人による「熟慮」として捉えられ、後に集団による「議論」の意味が加わったと考えられるだろうか。1950年の『研究社新英和大辞典』*13 においては、「熟慮」「熟考」の他に、「熟議」「討議」「審議」などといった、現代のdeliberative democracy論の紹介において用いられている訳語が登場している。


3. 現代の訳語

 本節では、現代のdeliberative democracy論の紹介におけるdeliberationの訳語について考察を進めることとする。前節ではdeliberationの意味が、語源的には個人による「熟慮」が第一義的であり、そこから集合的熟慮=「議論」の意味が派生していることを確認したが、現代の訳語はその両面を伝えることに成功しているだろうか。

 現在の政治哲学・法哲学の議論においては、deliberationは「熟議」「討議」「熟慮」の3つが主要な訳語となっているように思われる。まずは「熟議」と「討議」について考えてみたい。

3.1 熟議と討議

 「熟議」「討議」は同様に「よく議論すること」といった意味であって、さほどの違いはないように一見したところ思われる。たとえば『日本国語大辞典(第二版)』では、「熟議」は「十分に評議すること。よくよく相談すること」、「討議」は「あることについて意見を述べて論じ合うこと。討論。ディスカッション」とされている。また『大漢和辞典(修訂第二版)』では、「熟議」は「とくと事の是非をはかる。十分に評議する」「相談のよくととのふこと」、「討議」は「或る事件について多人数が意見をたたかはすこと。意見をのべて論じあふこと」とされている*14。いずれも他者と十分に意見を交換することという意味では、ほぼ同じもののように思われる。では、なぜdeliberationの訳語がどちらかに統一されることがないのであろうか。

 「熟議」と「討議」を比較した上で訳語選択の理由を述べている論者はさほど多くないが、谷口功一は「熟議」の訳語を選択するにあたって「Deliberationの語に含意される時間的ファクターを重視し」た、と述べている*15。谷口はそれ以上の説明を加えていないが、deliberative democracy論におけるdeliberationの「時間的ファクター」として考えられるのは、以下の2つである。まずは上述の3つの意味の中の(3)「不急」は端的にいえば決定を遅らせる(slow, hesitate)ことであり、(1)の「熟慮」、(2)の「議論」も「急がず、じっくり考える」という含意がある。そうすると、「時間的経過」というファクターは確かに含意されており、そこに「熟」の字をあてるのは理解できる。つまり、じっくりと時間をかけて考え、議論することが中心となるような民主主義のあり方が、「熟議民主主義」ということになる。

3.1.1 選好の変容可能性

 しかし「熟」の字源は食物を火にかけて十分に煮てやわらかくすることであり、そこから当初の「未熟」な状態から、十分な状態に達することという「変容」の意味も出てくる*16。つまり、単に決定を遅らせるだけの時間的経過だけではなく、もともと持っていた考えがdeliberationの結果、変容していくという2つの要素が「時間的ファクター」という意味では重要である。

 この「意見の変容」という点は、deliberative democracy論において最重要視されるものである。多くのdeliberative democracy論は、アメリカ政治の特徴であるとされた利益集団多元主義(interest-group pluralism)が、参加者の私的利益の追求の場に堕落し、共通善形成機能を喪失したことへの批判的意識を共有している。参加者がもともと持っているところの私的利益への志向を頑迷に固持し続けるだけであるならば、政治過程は単なる取引(bargaining)の場になる他はない。むろん、その結果としての均衡が何らかの共通善を達成することはありうる。しかしそういった民主過程においては、一定以上の資源と交渉力を持った集団のみが果実を享受し、それに至らない少数集団は構造的に交渉から排除されかねないという問題がある。近年、声高に叫ばれる「民主的正統性の危機」は、一面にはそうやって排除された集団にとって、民主的決定=法が正統性(legitimacy*17)を持ちえなくなっているということでもある。deliberative democracy論はこういった状況を克服すべく、参加者に一定程度の共通善への志向性を要求する。そこにおける「共通善」がいかなる内容のものであるかについては論者によって違いがあり、次に述べる「合意志向性」とも関係してくる。しかし、私的利益から離れて最初から共通善を追求すべくdeliberationに参加すべきであるといった強い主張をなさずとも、deliberationの過程で他者の意見を受け入れ、当初の意見を変容させることの「可能性」を受け入れる心構えは参加者たちに求められる。

 たとえば、エイミー・ガットマンとデニス・トンプソンは『民主主義と不一致』において、deliberative democracyの参加者たちは、自分たちが正しいと思う事柄について相互に受け入れ可能な正当化理由を提示するように努めることが要求されると述べる*18。この理由提示プロセスがdeliberationであり、そこでは相手を説得しようという動機とともに、十分に正しい理由提示がなされた場合には自分の意見を変えるだけの心構えもまた必要とされる。そういった選好の変容可能性が、各種のdeliberativeな原理(公開性や説明責任、機会の平等など)を具体化する制度によって保障される。この変容可能性の保障が、deliberationの結果たる民主的決定=法に正統性(legitimacy)を付与するという枠組が構想されている。こういった形で他者との議論において、自分の当初の「未熟」な意見が「熟して」いく過程をdeliberationの核とするのであれば、「熟議」という訳語は確かにその面を上手く表現したものであるといえるだろう。

3.1.2 合意志向性の有無

 「討議」ではそういった選好の変容を表現することはできないのだろうか。確かに「討議」という言葉には一見したところ、特に「変容」という契機はなく、議論百出のまま物別れに終わってしまう場合もあるようなイメージがある。しかし、「討」の字義を考えるならば、必ずしもそのようなイメージは適当でないように思われる。

 「討」の字義は、理屈(法)に合わないことを話し合いによって正しくおさめるということであるとされる*19。そこには、間違った状態から正しい状態への変容という過程が含意されていることになる。そうすると、deliberationによって各自の未熟な意見が、「正しい」共通善に向けられたものへと変容していく過程を、「討議」の語によって表現することもあながち間違いとは言えまい。つまり、時間的ファクターという点をとってみるならば「熟議」にも「討議」にも相応の「変容」への契機が含意されており、「熟議」のほうがこの点で優れた訳語であるとするのはいくぶん早計であろう。

 むしろ、「熟議」と「討議」は時間的ファクターの差異というよりは、合意志向性の有無に対応させるという方向性のほうがよいのではないかと筆者には思われる。というのは、上述の「討」の字義は、「正しい」状態があると想定された上で、それに向かっていく過程であり、そこから「討伐」などのように「悪い」ものを滅ぼすといった言葉が派生している。そうすると、「討議」は終局的に到達=合意される正しさ、つまり真理に向けてのdeliberationに対応する語として考えることができるように思われる。deliberative democracy論において、合意されるべき真理が実在すると考えるかどうかについては、激しい対立がある。先述のガットマンとトンプソンは、道徳についての人々の間の議論は決して終局的な合意(consensus)を見ることはなく、また規制的理念としてそういった合意を想定することさえ不要であるという*20。不一致(disagreement)が残存するのは解消しようのない事実である以上、それをできる限り節減(economize)し、価値観の異なる人々の間での相互尊敬を育んでいけるようにdeliberationを続けていくことへの最低限の同意、つまりdeliberative agreementがあれば十分であるとする*21。

 それに対し、ハーバーマスの影響を受けたdeliberative democracy論者、たとえばジョシュア・コーエンは「理想的なdeliberationは合理的に動機付けられた合意にいたることを目的とする*22」として、明確に「合意」を目的にあげている。その基礎にあるところのハーバーマスの「真理の合意説(収斂説)」は、彼自身の語るところによれば、「討議を遂行するという意図をもって我々がコミュニケーションを始め、十分な長さそれが続けられるならば、必ずある合意、それ自体として理性的である合意が生じる*23」というものである。各人が何らの強制を受けることもない「理想的発話状況」においては必ず「理性的な合意」が達成される。むろん、現実にはそういった状況は起こりえず、対立は残存するが、この「合意」は現実を導く理念として機能する。現実のdeliberation(ハーバーマスの言葉でいえばDiskurs)の実践は、終局的な合意を目指して人々が議論を続けることに他ならず、そのために「理想的発話状況」に少しでも近付けるような条件整備が求められる。

 このハーバーマスの「真理の合意説」に対しては、様々な批判が投げかけられている。たとえば井上達夫は、規制的理念として合意を措定することに反対して、対立の存続こそが探求の生産的な条件であり、それが人間の存在理解を豊かにすると述べている*24。こういった理解においては、deliberationは真理へと意見が収斂していく営みではなく、むしろ、それが進めば進むほどに世界と人間の多面的な見え方が現れてくるように「熟して」くるものであるだろう。不一致の存続をむしろ価値観の異なる人々どうしでの相互尊敬の涵養に転化する装置としてdeliberationを位置付けるガットマンとトンプソンの立場も、同様の前提に立っていると考えてよい。もっとも、それに対して合意志向性を支持する論者は、合意を規制的理念として想定することこそが人々に探求の共通の目標を与える、と再反論するかもしれない。

 「真理」あるいは「合意」の措定の適否について論じることは本稿の目的を逸脱するものであり、短い紙幅で論じられる問題でもない。deliberative democracy論におけるdeliberationの訳語にとって、選好の変容可能性としての時間的ファクターが重要であり、「熟」と「討」の字義を比較した場合、両者とも変容への契機を含んではいるものの、「熟」には「正しさ」への方向性が必ずしも含意されていない(「熟爛」のようにマイナスの意味を帯びた言葉もある)のに対して、「討」が「正しさ」への方向性を含意している点を鑑みれば、「討議」と「熟議」を合意形成志向のdeliberationと、合意を前提としないdeliberationに対応させる可能性を指摘するにとどめる*25。

3.2 熟慮

 ここまでは「討議」と「熟議」について、deliberative democracy論の主要な流れを検討しながら訳し分ける可能性を考えてきた。だが、この両者とも他者との「議論」を内容とする点においては共通している。「討議民主主義」あるいは「熟議民主主義」と訳されることによって、deliberative democracy論が過度に対話重視の民主主義理論であるかのように誤解される危険も無視することはできない。最初に確認したように、deliberationの本義はconsiderationやweighingなどの「熟慮」のほうにあり、「議論」の意味はむしろ派生的なものである。民主的な政治過程の中心がじっくりと時間をかけた「討議」あるいは「熟議」にあるという主張については、高見勝利によって次のように批判されている。

議会の「議論」との関係で語られる「討議民主主義」とか「熟議民主主義」とかには、’parliament’という言葉、その語源であるフランス語ないし中世ラテン語の’parliamentum’に対する過剰な思い入れ、入れ込みがあるのではないか。*26

高見によればdeliberative democracy論が主張するようなdeliberationは、少なくとも議会において実現可能なものではありえない。現代の議会は膨大な案件を抱えており、そのひとつひとつについて十分なdeliberationが可能であるわけもなく、「フォーマルな議事手続き上の約束事に基づいて、賛否の表決を繰り返しながら・・・粛々と進行するなかで行われる『質疑・討論』」があるのみだという*27。

 議会において理性的なdeliberationを過度に強調する一部のdeliberative democracy論者は、実行可能性を度外視していた点においてかかる批判を受ける「理論上の」責任は確かにあるだろう。先述のガットマンとトンプソンの理論などは、議会から日常の議論に至るまでその理由提示のあり方に理性的な拘束をかけようとするが、それは十分なdeliberationの能力を持たない人々から発言機会を奪ってしまうといった問題もさることながら、そもそも実現できないのではないかという批判がなされる*28。

 ただし、それはそれとしても、「討議」「熟議」という訳語が、deliberative democracy論を過度に浮世離れしたものであるかのような印象をもたらしたという可能性も否定できない。実際には、議会でのあらゆる審議がdeliberationであるべきだという強い主張をする論者は多いわけではない。ジョン・ロールズやブルース・アッカーマンのように議題の重要性によってdeliberationの拘束をかけるべきか否かを区別するものもあれば、ハーバーマスやジョン・ドライゼクのように、議会外での公衆のdeliberationをむしろ重視し、議会を単なる決定機関として相対化しようという論者も存在する。deliberative democracy論は、「討議」「熟議」としてのdeliberationの重要性を確かに主張するが、しかしそれが民主的政治過程のすべてであると主張するものではないのだ。「討議民主主義」「熟議民主主義」の訳語は、その点では、現実に行われている「議論」と、理論のギャップを必要以上に大きく見せかけてしまう危険があるだろう。

 先に引用したJ・S・ミルの文章では、個人のdeliberationと集団のdeliberationが、「熟慮」という意味において重ねあわされていたが、集団のdeliberation、つまり「討議」「熟議」に先立つものとしての個人のdeliberationを重要視する論者として、ロバート・グッディンがあげられる。彼はdemocratic deliberation withinという表現によって、外的な「討議」「熟議」に先立つ個人の「熟慮」の重要性を指摘する*29。これを「内的討議」なり「自己内熟議」などと訳すのも可能であろうし、ミルの指摘する、個人のdeliberationと集団のdeliberationの同型性を鑑みれば、あるいはそういった訳のほうが適切かもしれない。しかしそれは派生的な意味である「討議」「熟議」を、本来の意味であるところの個人のdeliberationの訳に持ち込んでいるという点において、いささか本末転倒な訳語選択ではないかという感も否めない。論理的な同型性を維持するか、語源的な先後関係を重視するかのディレンマに陥らざるをえないが、集団的なdeliberationに先立つものとして個人のdeliberationを位置付けるグッディンの立場を考えるならば、「熟慮」という訳語によって両者を分けておくのが適切ではないだろうか。

 なお、蛇足であるが、個人のdeliberationが集団のdeliberationに先立つというのはグッディンの主張の理解としては、いくぶん不正確な言い方である。彼はdeliberationの個人的側面をinternal-reflective aspectと表現する。reflectは熟慮するといった意味ではdeliberateとほぼ同義であるが、もう一方で「反映」「反照」といった意味も持っている。つまり、前もって「熟慮」した個人は、外部において他者と「討議」するわけであるが、その討議の結果として、彼/彼女はさらなる「熟慮」へと導かれることになる。この熟慮‐討議のフィードバック構造を、グッディンはreflective(反省的、反照的、再帰的…)の語で表現している。したがって、彼は自身の民主主義理論をreflective democracyと名付けているのである。討議の結果として選好の変容が期待できることを重視するdeliberative democracy論者にとっては、「熟慮」と「反照」の語を併せ持つreflectの語は魅力的であろうが、しかし、「討議」の意味を捨て去るわけにもいくまい。これは翻訳ではなく原語の問題であるが、民主主義モデルの構造を描写するときには熟慮‐反照のreflectiveを、参加者の行動を描写するときには熟慮‐討議のdeliberativeを使い分けるのが、いっそうの正確な説明を期するためにはよいようにも思われる。


4. まとめ

 以上、deliberative democracy論におけるdeliberationの訳語の問題という、きわめて狭い問題設定ではあったが、辞書的意味を確認した上で、deliberative democracy論の主要な主張と照らし合わせつつ、「討議」と「熟議」の訳し分けの可能性と、および、過度に対話中心的な印象を避けるために「熟慮」の側面も訳出するべきではないかという点について、一定の示唆が得られた。しかし結局のところ、deliberationの多義的な意味、特に個人の「熟慮」と集団での「討議」「熟議」の両方を意味する言葉が日本語にないため、いずれの訳も一長一短を抱え込まざるをえないのは確かである。柳瀬昇は両方の側面を訳出すべくdeliberationを「熟慮と討議」に訳しているが*30、いかにも説明的すぎるのが難点であるかもしれない。だが、たとえば「熟議」が単純に「(通常よりももっと)よく議論すること」といった意味で濫用される危険を考えれば、多少の煩瑣は厭わないことも必要ではないかとも思われる。


01. むろん、セットで考察されるべき問題として、democracyをどう訳すかという問題がある。deliberative democracyの訳語においては「民主主義」とするものと「民主政(論)」とするものにおおまかには分かれており、双方の意味合いには違いがあるが、本稿では問題を絞るために「民主主義」で統一した。
02. シャンタル・ムフ(Chantal Mouffe)やウィリアム・コノリー(William E. Connolly)が主な論客である。それぞれの主張には差異があるが、初期のdeliberative democracy論に「合意」を強調するものが多かったのに対して、この流派は「対立」こそが民主的政治過程の源泉であると強調する。
03. deliberationの訳語の使用状況のリストは、柳瀬昇「熟慮と討議の民主主義理論――公共理論と政治理論との架橋に向けての試験的考察――」慶應大学法学政治学論究58号、2003年、特にp. 396注61を参照。
04. ウェブサイト"Dictionary.com"を参照した。
05. 英語語源についてはT. F. Hoad ed.,The Concise Oxford Dictionary of English Etymology, Oxford U. P., 1993、ラテン語訳については田中秀央編『羅和辞典』研究社、1966年による。
06. John Ogilvie ed., The comprehensive English dictionary, London : Blackie , 1870
07. Charles Richardson ed., A new dictionary of the English language, George Bell, 1875
08. ナットル原著、知新館社訳『英和字典』知新館、1872年
09. J・S・ミルの原文テキストは"Classical Utilitarianism Website"によった。
10. 弥児氏著、前橋孝義訳『代議政体 訂三版』開新堂書店, 1892年、p. 138。なお、旧字は新字に改めた。なお、関嘉彦編『世界の名著38 ベンサム/J・S・ミル』(中央公論社、1967年)収録の「代議政治論」(山下重一訳)では、この部分のdeliberationは「熟慮」と訳されている。
11. 松沢弘陽「公議輿論と討論のあいだ――福沢諭吉の初期議会政観」北大法学論集41巻5-6号、1991年を参照。
12. 井上十吉編『井上英和大辞典』至誠堂書店、1915年
13. 岡倉由三郎編『研究社新英和大辞典』研究社、1950年
14. 日本国語大辞典第二版編集委員会、小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典(第2版)』小学館、2000-2002年;諸橋轍次編『大漢和辞典(修訂第2版)』大修館書店、2000年。
15. 谷口功一「立法過程における党派性と公共性」、井上達夫編『公共性の法哲学』ナカニシヤ出版、2006年、p. 169脚注12
16. 漢字の字源については、尾崎雄二郎ほか編『角川大字源』角川書店、1992年、白川静『字通(普及版)』平凡社、2014年などを参照した。
17. 正当性(rightness; justness)に依存しない、内容独立的服従理由としての意味で用いている。このような区別は現代の法・政治哲学では一般的であるが、両者の連続性を主張する立場も有力である。
18. Amy Gutmann and Dennis Thompson, Democracy and Disagreement, Belknap Press, 1996, chapter 2、特にpp. 52-55。および、選好の変容可能性がdeliberative democracyの基礎となる点に関して、Cass R. Sunstein, The Partial Constitution, Harvard U. P., 1993, pp. 162-164など参照。
19. 前掲・注16
20. Gutmann and Thompson, supra note(18), p. 26
21. Ibid., p. 78
22. Joshua Cohen, "Deliberation and Democratic Legitimacy," in The Good Polity, eds. Alan Hamlin and Philip Pettit, Blackwell, 1989, p. 23
23. Jurgen Habermas,"Vorbereitende Bemerkungen zu einer Theorie der kommunikativen Kompetenz",in J. Habermas and N. Luhmann, Theorie der Gesellschaft oder Sozialtechnologie : Was leistet die Systemforschung?, Frankfurt am Main:Suhrkamp(山口節郎・藤澤賢一郎訳「コミュニケーション能力の理論のための予備的考察」『批判理論と社会システム理論:ハーバーマス=ルーマン論争』所収、木鐸社、1987年、p. 167)
24. 井上達夫『現代の貧困』岩波書店、2001年、p.181
25. 本稿では触れられなかったが、deliberative democracy論において重要視される公開性(publicity)の観点から、「討議」と「熟議」を比較できる可能性もある(明治時代の用例では、「熟議」は有力者間の「密談」に近いものが多い)。
26. 高見勝利「実務的観点からみた立法の公共性」、長谷部恭男・金泰昌編『公共哲学12 法律から考える公共性』、東京大学出版会、2004年、p. 31
27. 前掲・高見論文、pp. 28-30
28. Michael Walzer, "Deliberation, and What Else?" in Deliberative Politics : Essays on Democracy and Disagreement, ed. Stephen Macedo, Oxford U. P., 1999
29. Robert Goodin, Reflective Democracy, Oxford U. P., 2003. in particular chap. 9 "Democratic Deliberation Within."
30. 前掲注3・柳瀬論文

2007.08.22 東京大学大学院博士課程在籍時に執筆(未公刊)、約1万6000字。
引用・リンクはご自由にどうぞ。レポートにコピペするのはいけないよ。

【付記】
 本稿を書いた後、deliberative democracy 論については日本でもいくつかの重要な著作が出ている。例を挙げると、
 篠原一『討議デモクラシーの挑戦――ミニ・パブリックスが拓く新しい政治』岩波書店、2012年
 田村哲樹『熟議の理由――民主主義の政治理論』勁草書房、2008年
などは deliberative democracy 論の本格的な紹介・検討となっている。ほか、deliberation の実践についての実証的研究として、
 ジェイムズ・フィシュキン『人々の声が響き合うとき――熟議空間と民主主義』早川書房、2011年
なども重要。また、いわゆる「討論型世論調査」(deliberative pole; DP)の実施により、この分野への一般的な関心も高まりつつあり、今後さらなる研究の発展が見込まれる。
 もっとも、最近の実証研究はどちらかといえば deliberative democracy の実効性(特に意見の変容など)について懐疑的な結論を示すものが多い。それは規範理論としての deliberative democracy の意義を損なうものでは必ずしもないが、かといってそれを無視した楽観的な議論が許されないのも確かである。


履歴のページへ
業績のページへ
書き物のページへ
TOPに戻る

inserted by FC2 system