# 某所で行ったレクチャーの読み上げ原稿です。学部向けよりやや難しめ、主にロースクールや公共政策大学院の方を念頭に置いています。
# 以下の使用スライドと合わせてご覧ください。別ウィンドウで開くと見やすいと思います。
# 「入門」じゃないだろう、という意見がありましたので「中級の入門」といたします。(^^;
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では「法哲学」の入門講義を始めさせていただきます。本日は私が長年取り組んでいるテーマである「世代間正義論」について(*1)、特にその将来世代の権利論についてお話しします。
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まず、本講義の全体、今回だけでなく法哲学を一通り学ぶうえでの全体ということですが、その最終目標についてお話します。法哲学はそもそも何を研究する学問かと申しますと、大きく分けて、ここに書いてありますように、第一に正義論、これは法が実現すべき価値や秩序がどのようなものであるかを論じるものです。たとえばリベラリズム、リバタリアニズム、功利主義、共同体論といったさまざまな主張がありまして、その一部は政治哲学とも重なりあいつつ盛んに議論されています。
もう一方、二番目といたしまして、法概念論というものがあります。これは文字通り、「法」および「法」にかかわるさまざまな概念がどういうものであるか、ということを記述しようとするものです。立法府を通ったかどうか、裁判官集団に受容されているかどうかといった社会的な事実を見るだけで「何が法か」というのを確定できるとする法実証主義という立場が一方にあり、もう一方に、事実を超えた規範というものがあってそれは現存の法に縛られるものではないとする自然法論がある。実際にはそれぞれの陣営の内部にもいろいろありますし、またその中間的なところで多くの議論がなされていますが、まあ、かなり玄人向けの話になります。
従来の法哲学のイメージですと、ロールズ以降の政治哲学的な議論に何らかの形で取り組む研究者が多いこともありまして、どうも正義論中心になっているのではないか、と思われてきました。ちょうど、ハーバードのマイケル・サンデル教授がNHKの「白熱教室」でちょっとしたバブルを起こしましたが、あの「いい意見だ、きみはなになに主義だね」というレッテルはそういった、正義論中心の法哲学というイメージを残念ながら強化することにもなったと思います。では一方で法概念論のほうはどうかというと、これは主にイギリスのケンブリッジを中心とするサークルによって法実証主義論争というのが延々と繰り広げられていまして(*2)、それはそれで重要なのですが、議論が精緻すぎて、外部者には何のためにやっているのかとてもわかりにくい状況になっています。
一方で派手に見えて面白い正義論があり、もう一方にあまりにも地味な法概念論がある。この分断をさして、ついこないだ亡くなった法哲学の巨匠、ロナルド・ドゥオーキンは「法哲学はinterestingでなければならない」と述べています(*3)。このinterestingは単に面白いというだけでなく、分野横断的な可能性を意味しているといってよいでしょう。つまり、法哲学の分野としての独自性を保ちつつも、それが他分野によっても参照されるような知的刺激を兼ね備えていなければならない。そのためには、この、正義論、そして法概念論をふたたび、バラバラにではなく、つねに内在的な関連のもとに統合して理解していく必要がある、少なくとも私はそう考えます。この講義ではそのための一貫した視角を作り上げていただくことを最終目標としたいと思っています。
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そのために選ぶ議論の素材が、世代間正義論、と呼ばれる問題領域です。これはいまだ生まれざる将来世代と、現在世代とのあいだの正義の関係を問うものでありまして、環境問題などとのかかわりから非常に実践的な性格を有しています。最近でしたらたとえば原発事故の問題などは、その影響が非常に長期にわたるという意味でこの問題領域にかかわっています。各種の法哲学的な立場について、こうした実践的な問題に応用することでその妥当性をフィードバックして検証することも重要な作業であります。が、
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今回の講義で行いたいことは、その正義論を深めるというよりもむしろ、こうした問題を考えることは必ず、法概念論、つまり法や法的な諸概念がどういうものであるか、あるいはあるべきかということの考察につながらざるをえない、むしろ両者が照らし合う整合的なあり方を考えることが法哲学である、バラバラではいけない、ということの「実例」を示すことです。
それにあたって、世代間正義論の有力な立場のひとつである「将来世代の権利論」を取り上げます。将来世代は良好な環境を享受する権利を有する、というシンプルな主張ですが、それを一貫させるならば現在に生きる我々現在世代の「権利」概念もまた再構成される必要がある、そういった視角として将来世代の権利論を扱いたいと思います。
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世代間正義論の問題設定、これはそのまま読みますが、現在に生きる我々は、直接の関係をもたない将来世代の人々の福祉について何らかの配慮をする責務があるかどうか、あるとすればそれはなぜか、あるいはどこまでの遠い将来世代にまで及ぶものなのか、といった問題です。従来の法哲学や政治哲学は基本的に、同時代に存在する人々の間の相互的な関係を考えてきました。したがって、おそらくは一方的な関係にあるところの将来世代の問題をどう扱うか、非常に苦慮してきたわけであり、そこに世代間正義論の独自の問題領域があります。
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日本での議論状況、これは書いてあるとおりですので飛ばしますが、主に倫理学者によって担われてきたため、では将来世代の福祉を守るためにどういった制度が必要か、といったことが弱かったように思います。なので、そこで原理から制度まで一気に考える法哲学の出番、ということになります。
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欧米ではどういうふうに議論されてきたかといいますと、やはりここでも大きいのがロールズの存在です。こうやって顔写真を出すと名前と主張の結びつきがイメージ的に強まるようなのでそうしております。それはそれとして、彼が『正義論』のなかで貯蓄原理という、ごく控えめな原理を世代間正義の問題として出しました(*4)。その内容は飛ばしますけれども、ロールズがそうして将来世代、というものを正義の対象として明示的に取り上げたことにより、世代間正義論もさまざまに論じられるようになりました。
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その正当化の試みにはどのようなものがあるかと申しますと、権利論や功利論、世代間契約論などさまざまなものがあります。本来の講義でしたらそのそれぞれについて実質的な検討を行いますが、今回はそれは主目的ではないのでとばして、権利論を考察の素材として取り上げてみます。
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将来世代の権利論というのはどういうものかと申しますと、将来世代には良好な環境を享受する権利がある、そして現在に生きる我々にはそれに対応した配慮義務が存在する、そういうシンプルな主張です。これは一見したところ強力なもののように思えますが、
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しかし、ここでデレク・パーフィットという、この写真の、厄介な哲学者が指摘した「非同一性問題」というものが立ちはだかります(*5)。
どういうものかというと、将来世代の個々の権利に対応して現在世代が義務を果たしたならば、その行為自体が将来世代の構成を変えてしまう、そしてそもそもの権利主体が消滅してしまう、というパラドクスでございます。
これ、ぱっと聞いただけではわかりにくいですが、具体的にいうとですね、人間の生殖には森羅万象あらゆるものがかかわっているという事実を前提としたものです。たとえばわたしが、将来の環境を守るためにガソリンをあまり使わないようにして、車でなく徒歩で通勤するようにしたとします。たぶんそれでいまより健康になると思いますけれども(?)、そうすると、これから出会う結婚相手にも変化があるかもしれない。そして、お相手が違えば生まれてくる子どもも当然に違いますから、何もせずにガソリン使っていたときの将来世代とは違った人が生まれてくるというわけですね。
そうすると、そもそも権利を主張していたはずの人は誰だったんだ、という話になるわけです。つまり権利主体の同一性が失われます。これは面白いところというか、詭弁くさいというか、いろいろありますけれども、理論的にはそうした、将来世代の同一性を前提とした議論は壊滅的な痛手をこうむることになりました。
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で、だったら将来世代の権利論というのは維持不可能かというと、必ずしもそうでもなく、いろいろと克服の試みがなされています。
将来世代の同一性を厳密に考えすぎるからそうなるのであって、別に、配慮の結果として生まれてきた将来世代も同じものと「みなす」といった、非常に法学的な構成をすれば影響はさほどでもないかもしれない。あるいは、権利の本質論として利益説と選択説という古典的な対立がありますけれども、この非同一性問題を踏まえますと、その影響を受けにくい利益説のほうが説得的であるといえるかもしれない。というのは、良好な環境であるとか、将来世代の利益は比較的ゆるやかに捉えることができるのに対し、将来世代の選択というのは、まあ現在世代の誰かが代理しなければならないわけですから、誰が誰にかわってそれを行うのかといったことが厳しい問題になるわけです。
で、ここで強調したいのは、そういった権利概念にかかわる難問が、時間を短縮すればそのまま現在の権利概念にはねかえってくる、ということです。どういうことかといいますと、ここに「5分後の私の権利実現はいったいどういう構成によって可能になるか」と書きました。これはおそらく奇妙な問いに思えるでしょう、けど、権利の主張とその実現には、どんなに短くても必ずタイムラグがある。ある権利を主張する、そのことによって当の私が何らか変化する、そうすると誰が誰に対して誰の権利を主張し、誰がそれを実現したのかといったことで同様のパラドクスが生じます。
それを無効にするためには、そういったミクロな同一性を問題にしないような権利概念の構成が必要になる。つまり、将来世代の場合と同じように、どれも「同じ」人だと「みなす」という操作が、権利概念にはそもそも入っている、そういったふうな考え方が必要になるかもしれないわけです。
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かなり極端な例を出しましたのですぐには納得しづらいところかもしれませんが、この話はあくまで一例として聞いていただければと思います。世代間正義論は「時間」という軸が入りますから、法的な諸概念をいろいろなところで問い直すわけですね。それはミクロな場面、つまり現在の法概念論においてもそうである、ということを示したかったわけです。
まとめますと、こういったふうに、正義論と法概念論というのは整合的に理解しようとすればどこかで双方を照らし合うような内在的な関係になります。いや、むしろ両者を断絶させることが最も整合的な理解だ、という立場もありえます、が、それも広い意味では両者を統合的に捉える主張です。次からはもっとさまざまな例に取り組みながら、この両者を整合的に理解する立場を構築してもらう材料を提供できればと考えております。
【注】
*1 吉良貴之「世代間正義論――将来世代配慮責務の根拠と範囲」(国家学会雑誌119巻5-6号、2006年)、同「世代間正義と将来世代の権利論」(愛敬浩ニ編『人権の主体』法律文化社、2010年)ほか。
*2 Jules Coleman ed., Harts Postscript: Essays on the Postscript to `the Concept of Law, OUP, 2001; 深田三徳『現代法理論論争――R・ドゥオーキン対法実証主義』(ミネルヴァ書房、2004年)など。
*3 Ronald Dworkin, Justice in Robes, HUP, 2008, pp. 185-(宇佐美誠訳『裁判の正義』(木鐸社、2009年)、233頁以下)
*4 John Rawls, A Theory of Justice, HUP, 1971(川本隆史・福間聡・神島裕子訳『正義論(改訂版)』(紀伊國屋書店、2010年))
*5 Derek Parfit, Reasons and Persons, OUP, 1984(森村進訳『理由と人格』(勁草書房、1998年))
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