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一橋大学大学院法学研究科・基礎法学総合講座「法文化構造論」まとめ(吉良貴之)

 一橋大学大学院法学研究科の基礎法学総合講座「法文化構造論」でこれまで行った発表の要旨を掲載しています。日本学術振興会特別研究員PDとして在籍していたときから始めていますが、その後も貴重な場として年に1回発表させていただいております。ここではできるだけ毎年違った・実験的なことを発表したいと思っておりまして、テーマは多岐にわたっています。

 # 若い方が増えてきたこともあり、そろそろ卒業の見込みかもしれません。(^_^;)


8.「権限配分最適化構想としての立憲主義――A. Vermeuleの近著を素材に」(2015年10月03日)

 近年、憲法問題に関わる議論において「立憲主義(constitutionalism)」という語が頻繁に用いられるようになっている。立憲主義は広義には憲法に基づく政治体制のあり方を指すが、近年の用法では、人権保障を核とする権力制限的契機が強調される傾向にある。このように「権力の過剰」を前提とした上でその抑制を図る憲法秩序観は通説的なものといえようが、一方、憲法思想史的には権力をむしろ希少な資源とみなし、そのパフォーマンスを最大化すべく配分するあり方としての立憲主義構想も有力なものとしてある。
 本報告では現代アメリカにおいてその流れを受け継ぎ、「新制度論者」として「最適化立憲主義」の構想を唱えるエイドリアン・ヴァーミュールの議論を紹介・検討する。主な対象とするのは彼の主著 Judging under Uncertainty (2007)、および最新著 Constitution of Risk (2014)である(なお、後者は吉良が翻訳作業を進めている)。
 具体的な論点としては、たとえば複雑性と複合性を加速度的に増しつつある科学技術のリスクが法的問題になる際、司法はそれに適切に対処する能力を現に有しているかどうか。ヴァーミュールはそれに消極的であり、司法における憲法解釈として禁欲的なテキスト主義を主張しつつ、立法・行政の各ブランチの能力に応じた権限配分の最適化を図ろうとする。そしてそれが実証的に検証可能な経験的問題であるとするところに彼の独創性がある。本報告では「法と科学技術」の問題関心のもと、彼の提唱する最適化立憲主義の妥当性を検討したい。

7.「ドゥルシラ・コーネルの法理論」(2014年07月18日)

 ドゥルシラ・コーネル(Drucilla Cornell)の法理論を紹介・検討する。吉良が監訳をつとめた新著『自由の道徳的イメージ』(御茶の水書房、2015年に出版予定)、 同じく監訳『イーストウッドの男たち』(2011年)の内容を中心に、これまでの『イマジナリーな領域』『限界の哲学』などの著作と関連づけながら、「イマジナリーな領域」「限界」といった独特の概念を駆使して展開される コーネルの法理論の可能性を考察したい。 コーネルは現在、ラトガース大学の教授であり、 法哲学、政治哲学、フェミニズム思想について幅広い業績を残してきた。 彼女は「倫理的フェミニスト」という自己認識のもと、 ジャック・デリダの《脱構築=正義》論(およびそこから影響を受けた批判的法学研究、批判的人種理論)、ジャック・ラカンの精神分析理論を現代のリベラルな法・政治哲学に接合する試みを続けてきた。デリダやラカンの議論はその難解さと不明瞭さゆえに現代の法哲学では敬遠される傾向にあるが、リベラルな法哲学が(暗黙のうちに?)前提としている「主体」像の形成過程を考える上で一定の有効性を持ちうるとするコーネルの議論は、そうした一連の思想潮流と現代の法理論の生産的な関係を考えるにあたって有益な視座をもたらすだろう。なお、アパルトヘイト後の南アフリカ共和国での法/正義の再構築について論じた 2014年の最新著 Law and Revolution in South Africa も余裕があれば紹介する。

6.「世代会計の規範的可能性」(2014年01月24日)

 本報告では、いわゆる「世代会計」を取り上げ、その規範的含意について考える。世代会計とはローレンス・コトリコフらによって開発された手法であり、 国民を10年程度ごとの世代に分け、それぞれに属する人々が政府に税金の形で支払った負担と、社会保障などの形で受け取った受益のバランスをグラフによって示したものである。日本の場合、いくつかの計算があるが、おおむね2010年時点で50歳程度が「損益分岐点」になっている。つまり、それ以上の世代は政府との関係で収支がプラスであり、それ以下はマイナスとなる。特に20歳以下および将来世代になると数千万円単位のマイナスとなる。 このように可視化された世代間不均衡は、民主的政治プロセスにいかなる影響を与えうるか。 ポジティヴな可能性としては、高齢世代に将来試行的な責任感を育み、若年世代に政治参加への意識を高めさせる契機となる。ネガティヴな可能性としては、高齢世代にいわゆる「逃げ切り」インセンティブをもたらし、若年世代に無力感をもたらすものとなる。民主的政治プロセスの現在中心性を考えるならば後者の危険が高いといえるが、前者の可能性につなげる道にはどのようなものがあるか。近年、注目されつつあるリベラル・ポピュリズムなどの知見を参考にしながら検討する。

5.「死者と将来世代の存在論――「死の害」の考察から」(2012年05月25日)

 もはや/いまだ存在しない対象について、その存在論的身分を考察する。特に素材とするのは、英米分析形而上学において盛んに論じられている「死の害」の議論である。 死は一般的に「悪い」ものであるのは確かだが、それは「誰にとって」「いつ」悪いといえるのか。 本人がもはや存在しないにもかかわらず、「悪い」という性質を帰属させるとはどういうことなのか。こういった非存在対象への性質帰属の問題は、エピクロスやルクレティウスによるパラドクスの提出以来、二千年を超えて根本的な哲学的問題であり続けているが、 近年の分析形而上学における時間論の精緻化によってまた新たな光が当てられつつある。
 本発表では死の害についてトマス・ネーゲル以降の「剥奪説」をめぐる議論の時間論的側面を中心的に検討しながら、ひるがえって、いまだ生まれざる将来世代の存在論に接続することを目指す。発表者は時間論において「現在主義」と呼ばれる立場の一種を支持するが、過去/将来命題の真理製作者たる現在の「証拠」によって死者/将来世代を適切な範囲のもとに「区切る」ことを可能にする枠組みを提出したい。

4.「「科学裁判」の諸問題」(2011年07月15日)

 「不確実な科学的状況での法的意思決定」プロジェクトに関連して、「法と科学」に関する最近の問題を考察する。 科学技術の先端的問題が争点となる裁判においては法律家と科学者の協働が不可欠であるが、現状では様々な困難がある。 本発表では、特に以下の点に焦点を当てる。 (1)科学者の「証言」の法的取扱いにおいてクリティカルになる、当事者主義の構造的問題。 (2)「因果関係」についての法律家と科学者の理解の不一致とその原因。(1) については、Sheila Jasanoff, Science at the Bar, 1995(渡辺千原・吉良貴之監訳『法廷に立つ科学』勁草書房、2015年予定)を嚆矢とする、 科学技術社会論(STS)における「法」理解を批判的検討の素材とする。 (2) については、Hart & Honore, Causation in the Law, 2nd., 1985 から、Moore, M.S., Causation and Responsibility, 2009に至る(法的)因果関係論の諸文献を参考にする。

3.「世代間正義と将来世代の権利論」(2010年06月04日)

 現在に生きる我々はこれから生まれてくる将来世代のために、良好な地球環境を保全したり、 枯渇資源を十分に残したり、核廃棄物を適切に管理したりするといった諸々の配慮を行う責務を負っているのだろうか。この責務をいかに正当化するかという問題は、 世代間正義(intergenerational justice)論として昨今の規範理論において活発に論じられている。それにあたっては様々なアプローチがあるが、 本発表では特に権利論によるものを取り上げ、その魅力と限界を見定めたい。
 権利論の主張は〈将来世代には良好な地球環境を享受する権利があり、現在世代はそれに対応した義務を負う〉という単純明快なものであるが、 D. Parfit が指摘した非同一性問題(配慮そのものが当の将来世代の構成を変えてしまう)によって 壊滅的な打撃を被ったとされ、 有力な潮流とはなっていない。現在世代の責務のみを論じれば足りるという指摘で簡単に片付けられがちである(筆者も一定程度、それに同意するのだが)。
 しかし最近では、共同体論あるいはリベラル・ナショナリズム論の影響を受けた論者によって 積極的な再構成が試みられており、 その意義を十分に見定めることも必要であると考える。 そのような権利論でも従来の問題を十分に扱いきれておらず、 また概念的な無駄を抱え込まざるをえないという点において理論上の弱点は克服されていないものの、一方、普遍主義的アプローチにおいて軽視されがちであった配慮の動機問題について、 将来世代を配慮の単なる客体としてではなく権利主体として構成することによって想像力の回路を示そうとしている点に一定の意義があると考えられる。また、この作業はひるがえって現在に生きる我々の権利主体性、 とりわけその規約的(conventional)性格を照らし出すことになるだろう。アルキメデスの点としての将来世代の権利論は、むしろ現在に生きる我々の権利論を問い直すことに最大の意義があるということを本発表では示したい。

2.「応報刑論/応報的正義論の現代的展開」(2009年07月17日)

 現代刑罰思想における応報刑論・応報的正義論について考察する。応報刑論はもともと評判のよいものではないが、 昨今は目的刑論の行き過ぎ(実効性への疑問、人権軽視)への反省から「応報刑論のルネッサンス」という事態が起こっており、 両者は折衷的に理解されるようになっている――カントやヘーゲルの応報刑論さえも。 本発表ではその議論状況(特に英米のもの)をふまえた上で、 「支配」や「自由」に関わる諸問題との関わりを考えていく。 工学的(architecturalをこう訳してみる)な支配が広まるにつれて、 予防目的の刑罰は一般・特別を問わずその必要性を著しく低める。 したがって理論的には「緩罰化」が要請されるのだが、 しかしそれと逆行するように世論における「厳罰化」要求は高まる一方である。 これが何を意味するのかを、神経倫理学の最近の成果などを通して分析してみる。 それにはもちろん統計情報の歪んだ伝達が大きな要因としてあるが、より原理的にいえることはないか。とりあえずの仮説として、目的刑の実効性が弱まるにつれ、その(過渡的な?)補完としての応報刑論/応報的正義論が不気味に復活することを指摘したい。なお、「応報」という観念の時間分析(事前 ex ante の応報はあるだろうか?)なども興味深い思考実験となるため、適宜織り込むことによって議論の立体化を図る。

1.「幸福と時間―Whole Life Satisfaction説の時間分析」(2009年01月16日)

 幸福論における「生全体への満足(whole life satisfaction)」説 (以下、WLS説)につき、特にその時間的側面に着目して分析を行う。 WLS説は、幸福判断における時間的範囲を文字通りその人の生涯全体とするものであり、現代の議論では W. Tatarkiewiczが Analysis of Happiness(1962=1976)において明確に打ち出し、その後、J. Kekes、J. Griffin、L. W. Sumner などの有力な論者によって 理論的深化が図られてきた(変奏として、有機的全体説、構造説など)。本発表では、それらの議論を追いつつ、 存在論としてのWLS説が時間論上の四次元主義(four-dimensionalism)、意味論上の全体論(holism)、 価値論上の欲求充足説(desire satisfaction theory)などと親和的であることを示す。 発表者は必ずしもWLS説を積極的に支持するものではないが、 従来は幾分か荒唐無稽なものとして考えられがちであったWLS説が 実際は多様で興味深い哲学的問題を内在させるものであり、 また実践的にも相応の直観適合性をもつrobustな理論であることを確認したい。なお、分配的正義論への含意や、現代の幸福論における位置づけなども余裕があれば簡単に触れる。


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